寺宝

壷阪寺と所縁の宝物 京都橘女子大学 教授 大学部長 猪熊兼勝

文化財は何も語らない。時には、長い歴史で養われた環境を物語る。礼堂は解体修理に伴って、地下調査があった。八角円堂の基壇石、三尊磚仏、蓮華文や唐草文の軒瓦など、創建時の仏堂の様相を示す品々が出土し、白鳳時代の建立を示している。この時代の息吹を伝えるものは、他に鳳凰磚(重文)がある。

堂内にまつられた数躯の仏像は、平安時代、室町時代の作品である。他は江戸時代のもので、本尊、天部像以外は、いずれも小像である。鎌倉時代の作品は、絹本着色の一字金輪曼茶羅図(重文)が残る。工芸品の状況に合せるように仏堂は、室町時代の礼堂(重文)三重塔婆(重文)を残すが、それ以前の建造物はない。これ程の名刹にもかかわらず、宝物が、やや少ないと、意外に思う人もあろう。だが、壷阪寺の歴史をひもとけば、嘉保三年(1096)、大伽藍のほとんどが灰に帰し、さらに承元五年(1211)、大門、僧房の罹災。畠山、越智氏による戦乱にまでまきこまれた。明治初年の廃仏毀釈の打撃も受けた。堂内で拝見できる石仏群は、勝憲長老によって将来されたガンダーラ、マトウーラの優品と、模彫されたインド石仏の数々である。(猪熊兼勝)

鳳凰文せん(重要文化財 奈良国立博物館寄託)

鳳凰磚飛鳥時代(白鳳期)7世紀
岡寺で出土したと伝えられる文様せん。
左右の翼をひろげ、尾を大きく巻き上げ、端雲の中で足を踏ん張る鳳凰の姿を、美しく力強く表している。鳳凰は想像上の端鳥で、唐時代の鏡・百済の文様せん・統一新羅の瓦などに、同様の表現がみられる。この鳳凰文せんと同じ大きさのせん(ひざまずく天人の姿を表した天人文せん)岡寺に伝わっており、これらは創建当時の岡寺の仏殿の須弥壇を飾っていたものと推定されている。(西山 厚)

三尊磚仏
三尊磚仏

方形の磚面に三尊を半肉彫にあらわした仏像で、その構図は倚座(いざ)する禅定印の如来を中心に、左右に侍立する脇侍菩薩、背後に菩提樹、上方に天蓋と二飛天を配したもので、周縁部をヘラで削り調整している。同様の構図の磚仏は奈良、川原寺裏山遺跡で多量に出土し、周縁部に立ち上がり部をもうけたものは奈良、橘寺で出土している。磚仏は押出仏とともに白鳳時代から奈良時代にかけて、寺院と厨子の壁面装飾や念持仏として盛んに作られ、それらの源流は中国やインドの千仏洞の壁面装飾などに求められる。(猪熊兼勝)

奈良時代

軒がわら
軒がわら

軒丸瓦は凸形の中房を中心に、内部には二面分割の複弁八葉を配し、外区には、やや大きめの連珠文をめぐらし、幅広の内傾面には鋸歯文を飾り、白鳳時代末期に属する。軒平瓦は内区に均正唐草文を配し、外区は上帯と下帯ともに連珠文を飾っている。昭和37年から始った礼堂の修理工事の際に地下遺構調査で出土したものである。(猪熊兼勝)

平安時代

大日如来像
大日如来像

木造・漆箔 像高49.5cm
平安時代 11世紀
大日如来は密教世界の中心的存在で、本像は智拳印を結ぶ金剛界の大日如来像である。構造は頭・体幹部を一材から彫出する一木造で、木心を背面中央に籠め、内刳は施さない。
両肩より先や両脚部は別材製とする。なお、両肘より先、髻頂部、金銅製の宝冠は後補。太い髻、伏せた三日月型の目や突き出し気味の唇、抑揚のある両脚部の表現など、平安時代中期の余風を残すが、体躯の奥行きは浅く、目鼻立ちや衣の彫りも丸みを帯びており、11世紀に入ってからの造像とみられる。(礪波恵昭)

増長天立像

増長天立像木造・古色 像高160.5cm
平安時代 12世紀
右手に剣、左手に三鈷杵をとり、腰を左にひねって立つ仏教世界の守護神。構造は一木造で前後に割り矧いでいるとみられる。なお、両肩より先、右膝より下などを後補とする。
口を明け歯列を見せて怒りの表情を示しながらもその表現は穏やかで、体の肉付けの起伏も控えめにし、身につける甲の彫りも浅い。全体として平安時代後期のおとなしい造形感覚に支配された造像といえるであろう。(礪波恵昭)

多聞天立像

多聞天立像木造・古色 像高156.2cm
平安時代 12世紀
右手を腰に当て、左手は高く上げて戟をとり、左脚に重心を落として立つ守護神像。
構造は一木造で頭・体通して左右に割り矧ぎ、頭部は割首とするとみられる。眉根を寄せた怒りの表情にもかかわらず彫りは浅く、ポーズに動きは少ないなど、守護神ながらも穏和な表現は平安時代後期の特徴である。現在、本堂内に増長天立像と対になる位置に安置されるが高くスタイルが整っており、細部の彫りの微妙な表現にも優れている。(礪波恵昭)

如来坐像

如来坐像木造・古色 像高27.4cm 
平安時代 12世紀
右肩より先を失い、左肘から先も後補であるため、当初の尊名は不詳であるが、左肘の曲げ方などから判断すると、腹前で定印を結ぶ阿弥陀如来坐像であった可能性が高い。頭・体幹部を通して一材から彫出する一木造で、体内部のみ内刳する。背面材、地付き部周辺などは後補。彫りが浅く伏し目がちの円満な相好、控えめな肉付け、端整な衣文表現など、小像ながらも平安時代後期の典雅な定朝様の特色がよくあらわれている。(礪波恵昭)

不動明王坐像

不動明王坐像木造・彩色・切金 像高50.7p 
平安時代 12世紀
本像は髪を巻髪、左眼を半眼とし、口を斜めにかみしめ口角に上下に牙をあらわし、右手に剣、左手に羂索(現在亡失)をとる姿である。構造は、体幹部を一材から彫出し前後に割矧ぎ、頭部は割首とする。表面は彩色仕上げとするが、現状ではほとんど古色に覆われており、その下にわずかに切金の痕跡が認められる。目鼻立ちは小振りに上品にまとまり、両脚部を覆う裳の表現も薄手で、浅く柔らかな襞が特徴である。平安時代後期の典雅で繊細な作風がよくうかがえる。(礪波恵昭)

鎌倉時代

薬師如来坐像

薬師如来坐像木造・玉眼・漆箔 像高87.2cm
鎌倉時代 13世紀
左掌上に薬壺をのせる薬師如来坐像であるが、両手先および薬壺は近年の修理による新補のため、当初の尊名は不詳である。頭髻を清凉寺式釈迦如来像のように縄目状とするのは鎌倉時代にごく一部見られるのみで、非常に珍しい。寄木造とみられ、眼には玉眼を嵌入し、漆箔仕上げとする。堂々とした安定感ある体躯、目尻のつり上がった鋭い目や、張りのある頬によって 力強く若やいで見える表情、深浅交えて流麗に整えられた衣文など、鎌倉時代、13世紀も早い頃の優れた造像例として大変貴重である。(礪波恵昭)

不動明王立像

不動明王立像木造・玉眼・彩色 像高96.4cm
鎌倉時代 13世紀
左眼をわずかに閉じ、口角に上下に牙をあらわし、右手に剣、左手に羂索をとる不動明王立像。構造は、前後に二材を寄せる寄木造とみられ、面相部はさらに別材を矧ぎ、玉眼を嵌入する。腰を大きく右にひねった動勢のあるポーズ、不動明王らしい肥盛した体つきをダイナミックな肉付けで表現した奥行のある体躯、玉眼とも相まって力強い怒りの表情をつくり出している深い彫りの目鼻立ちなど、鎌倉時代の充実した写実表現が特徴である。(礪波恵昭)

一字金輪曼荼羅(重要文化財 奈良国立博物館寄託)

一字金輪曼荼羅 絹本著色 縦107cm 横83.8cm
鎌倉時代 13世紀
一字金輪仏頂を本尊とする曼荼羅で、『金剛頂経一字頂輪王瑜伽一切時処念誦成仏儀軌』に基づいて描かれる。一字金輪仏頂の像容はおおむね金剛界大日と一致し、蓮華座の下に七頭の獅子が配されるのが普通であるが、本図では八頭となっているのが珍しい。周囲に、真下に置かれた仏眼仏母と、右回りに輪宝・珠宝・女宝・馬宝・象宝・主蔵宝・主兵宝の七宝を配する。以上の九尊を、胎蔵界曼荼羅の中台八葉院の形式に倣って、八葉蓮華に納め、四隅に宝瓶を据えた構成は、遍照光院本や奈良国立博物館本など、抽象的な地に諸尊を配列した他本と異なる。儀軌に説かれるところではなく、鎌倉時代の新図様ではないかとされている。(中島 博)

両界曼荼羅(奈良国立博物館寄託)

両界曼荼羅 紺地金銀泥 各縦160cm 横155cm
鎌倉時代 13世紀
金剛石のように堅固な大日如来の智慧を表現する金剛界曼荼羅と、大日如来の慈悲の広がりを表現する胎蔵曼荼羅という、本来は別個の二図を一対とした、密教の根本の図。弘法大師空海が唐から請来した図を写し伝えたものを、現図曼荼羅と称しており、本図もその一例である。彩色本のほかに、紫綾地に金銀泥で描いた「高雄曼荼羅」や紺綾地に金銀泥の「子島曼荼羅」といった遺品が平安時代からあり、本図はその伝統を引くと考えられる。非常に緻密で謹厳な描写で、諸尊の相貌にはインドの風を伝えるかと思われる異国的な表現も認められ、極めて良好な保存状態もあわせ、優品として注目される。なお、背面貼付紙に、慶長八年(1603)の修理銘が記されている。(中島 博)

室町時代 〜仏像・彫刻〜

本尊十一面千手観音菩薩像
本尊 十一面千手観音菩薩

室町時代の樫材の寄せ木造り、それ以前の本尊千手観音像に代わって造られたのだろう。蓮華座上にどっしりとした姿、ふくよかな顔立ちをする。御本尊である十一面千手観音菩薩座像は「眼の佛」として広く信仰を蒐めている。奈良・平城京を開いた元正天皇は皇女の折り、壷阪寺に詣で眼病の治癒を祈ったと伝えられ白鳳という古い時代から壷阪観音として多くの人に親しまれて来た。桓武・一条の天皇の眼病も平癒された。明治に生まれた壷坂霊験記は義太夫や浪曲に取り組まれ、歌舞伎や人形の舞台で演じられている。

四十の慈手をひろげ、その一手に二十五有界の衆生の苦しみを救うと説くが、現代語に訳するなれば、地球のあらゆるところでいろいろな苦しみ、そして悩みに自らを失っている人たちを救う実際の行動を表している。正面向かって右に赤い玉を持った手が日摩尼手で眼を救う御手と云われている。正面合掌しsている御手と合にて四十二手、その一つ一つ眼があると云う。我々が背中が痒いときなど自然に手がその場所へ、お腹が痛いとき千の手の一つが痛みを和らげる。私たち自身が観音様になって自らの手を慈手にし、自らの眼を慈眼にしてて衆生の中に飛び込めと教えているのだ。

江戸時代

群馬図屏風 京都国立博物寄託

雲谷等顔筆 六曲一双  
高さ153cm 横355cm
雲谷等顔(1547〜1618)は山口の毛利家に仕えた絵師で、狩野永徳や長谷川等伯らと並び称される桃山画壇の巨匠である。本名は原治兵衛直治、肥前国藤津郡能古見(現・佐賀県鹿島市)の城主・原豊後守直家の二男として生れたという。
等顔がはっきりと歴史の上に登場するのは、文禄二年(1593)のことである。この年、毛利家の当主・輝元は、すでに継ぐ者もなく荒廃していた雪舟(1420〜1506?)の旧居・雲谷軒(雲谷庵)と雪舟の大作「山水長巻」(毛利博物館蔵)を授け、雪舟流の再興を命じる。と同時に、直治も姓を「雲谷」、名も雪舟等楊の「等」字を取って、等顔と改めるのである。等顔47歳のことであった。
新発見のこの「群馬図屏風」はスケール感豊に描出された野馬の群れは、観る者を魅了せずにおかないだろう。堂々たる馬体、風になびく美しいたてがみなど、神馬のごとき威厳に満ちた姿がとりわけ印象深い。
等顔の現存する屏風絵の馬図としてはこれまでわずか4作品しか知られていなかった。その意味でも、5作目に当たる本図の発見はまことに意義深いものがある。(山本英男)


群馬図屏風

群馬図屏風

豊臣秀長公像
豊臣秀長公像

江戸時代 寛永10年(1630)の作
豊臣秀吉の異父弟。大和郡山城主。
秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せて天下統一に貢献した。大和を中心に116万石の大領を支配し大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。 天正19年(1591)郡山城で病死。享年52才。男子がいなかった為、家督は甥の豊臣秀保を養子として後を継がせた。 平成20年に約400年ぶりに修理を行い、壷阪寺灌頂堂(旧因幡堂)に安置。

本多俊政公像
本多俊政公像

江戸時代 大和高取藩初代藩主 因幡守 別名:正武、俊正、利朝
父本多利久とともに豊臣秀長に仕える。秀長の死後、豊臣秀保に仕え、その死後秀吉の家臣となった。関ヶ原の戦いのとき、東軍に与して会津征伐に従ったため、居城である高取城は西軍に攻められたが、城主俊政が不在にも関わらず城は遂に落ちなかった。 このため戦後、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。 慶長15年(1610)閏2月8日に死去。享年60才(戒名 利生院殿秀阿春大禅定門) 後を子の本多政武(1598年〜1637年)が継ぐ。政武死後嗣子がなかった為、高取藩本多氏は改易となった。 高取藩はその後、植村家政より家壷まで14代続く。 本多俊政像も豊臣秀長像と同時期の作と思われる。 平成20年に約400年ぶりに修理を行い、壷阪寺灌頂堂(旧因幡堂)に安置。

執金剛像
執金剛像

木造 像高 155p  江戸時代
執金剛神は、金剛手、持金剛とも称される、仏教の護法善神である。金剛杵を執って仏法を守護するため、この名がある。  
金剛杵は、仏の智慧が煩悩を打破する武器であることを象徴している。
本像は、本堂内の北東側に安置され、鬼門を守護すると言われている。 

愛染明王像
愛染明王像 江戸時代
衆生が仏法を信じない原因の一つに「煩悩・愛欲により浮世のかりそめの楽に心惹かれている」ことがあるが、愛染明王は「煩悩と愛欲は人間の本能でありこれを断ずることは出来ない、むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる」とする功徳を持っている。
また、軍神としても古くより信仰されている。
愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、頭にはどのような苦難にも挫折しない強さを象徴する獅子の冠をかぶり、叡智を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座るという、大変特徴ある姿をしている。
坪坂観音縁起 奈良国立博物館寄託

紙本著色
縦36.6cm 長1546.5cm 
江戸時代 寛文2年(1662)
坪坂(壷阪)の観音菩薩の霊験の濫觴を記したという絵巻。寛文2年(1662)に制作された。
施主は東大寺清凉院の實海で、絵師は狩野信光、詞書は清水宗陳が担当した。
坪坂の村に住む姫君が、尊い聖の説法にでかけ、親孝行する者には仏神が感応すると聞いた。貧しくて父親の十三回忌に何もできないのを悲しんでいると、たまたま陸奥国の商人が15〜16歳の女性を買いに来たので、進んで我が身を売り、そのお金で父親の菩提をとむらうことができた。母を残し、遠い陸奥国まで来た姫君は、15〜16歳の女性が必要とされた理由を知る。
ここでは毎年、大蛇に人を供えなければならず、ある親が娘の身代りを求めていたのである。
決められた池の中嶋で待つと、やがて長さ30メートルもある大蛇が現れた。しかし姫君が御経を読むと、経典読誦と親孝行の功徳により、大蛇は成仏を確信して歓喜し、姫君を乗せて天に昇る。姫君は実は弁財天、大蛇は実は坪坂の観音菩薩であり、末世においても信心があれば二世安楽うたがいなしと結んでいる。(西山 厚)
坪坂観音絵巻

坪坂観音絵巻

その他、多数の寺宝が壷阪寺境内に安置されています。