壷阪寺について
壷坂寺の魅力、寺宝や縁起を紹介
南に桜の名所吉野山を控え北に万葉のふるさと大和三山奈良盆地を一望におさめる壷阪の山に建つ。
真言宗の寺。西国三十三所観音霊場の第六番札所。
本尊十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として全国各地から毎日多くの参拝者が訪れる。
創建は寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりといわれる。境内からは当時の藤原宮の時期の瓦が多数出土している。その後、元正天皇に奏じて御祈願寺となった。
平安期には、長谷寺とともに定額寺に列せられ(847年)、平安貴族達の参拝も盛んになり、ことに清少納言は「枕草子」のなかで「寺は壷坂、笠置、法輪・・・」と霊験の寺として、筆頭に挙げている。また、左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿泊したという記録も残っている(1007年)。
この頃、子島寺の真興上人が壷阪寺の復興にあたり、真言宗子島法流(壷坂法流)の一大道場となり、三十三所の観音霊場信仰とともに、寺門は大いに栄えていった。
その後数度の火災にあうが、その度に山僧の合力により再建がなされてきた。
しかし、南北朝や戦国の動乱に巻き込まれ、当時庇護を受けていた越智氏の滅亡とともに壷阪寺も衰退していく。
一時は山内に三十六堂、六十余坊の大伽藍を配していたが、境内には三重塔と僅かな諸坊を残すだけとなった。
近世の壷阪寺は豊臣秀吉の弟秀長の家来本多利久が高取城主となり、本多氏とその後明治の廃藩置県まで続く藩主植村氏の庇護を受け復興していった。
明治の初め、盲目の夫沢市とその妻お里の夫婦の物語、人形浄瑠璃『壺坂霊験記』が初演され、歌舞伎、講談、浪曲となり壷阪寺の名は大きく世に広まっていった。(壺坂霊験記)
戦後、壷阪寺は社会福祉活動に貢献し、昭和36年には、多くの善意が結実して、日本最初の養護盲老人ホーム「慈母園」を設立。現在も国内各地で社会福祉活動に寄与している。(社会福祉法人壷阪寺聚徳会)
また、昭和39年より、インドにてハンセン病患者救済活動に着手し、教育助成事業や地域開発援助などの国際奉仕活動を、現在もインド各地にて幅広く行っている。(財団法人アジア・アフリカ国際奉仕財団)